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【雑記】ニッサンのバットマンカーは成功するのか?
 昨年のル・マンウィークでニッサンのル・マン挑戦のリリースを聞いた時、誰がFRレイアウトでの参戦を予想しだだろうか?
 いや、しかし、発表された車輌名に「GT-R」の名前がついていた事に、若干な嫌な予感はしていた。

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 数年前、GM(シボレー)の面々と、シルエットフォーミュラー構想を提唱、市販車に見えるマシンでの参戦を提案し(結局廃案に) 更にはドライサンプのニッサンGT-Rでル・マンに参戦したいと、ACO相手にゴネていたニュースを横目で見ていて 「GT-Rに見えるマシンで」 の総合優勝への挑戦は、首脳陣の参戦決定への必要条件だった? というのは、なんとなくスジが見えてくるところだ。

 ……しかし、それで果たして勝利を狙えるパッケージになるのだろうか?

 もし、ニッサンが来年、優勝とまで行かなくてもWECのレースで、ポルシェやトヨタを相手に大活躍を見せたならとても自分は驚くだろう。
(予想するに、精々リベリオンR-Oneあたりと争えるくらいが関の山じゃないかなとは思っているのだが……)
 
 FRレイアウトのヒントはおそらくハイブリッドシステム、リカバリーシステムのモーターとエネルギーの細かいレギュレーションの関係、それから4WDに対する厳しいレギュレーションの隙間に、何かニッサンなりの方程式があるのだろうとは予想してはいるのだが……果たして。

 近年ではレーシングカーにおいて常識と化したミッドシップレイアウト(MR)
 ル・マンでも、最期のFR車の優勝は50年以上前に遡る。
 まだ、エンツォ御大もスポーツカーにも執心だった1962年のフェラーリ330TR-LMスパイダーが、最期のFRでのル・マン優勝車だ。
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▲Ferrari 330TR/LM Spyder (1962)

 当時はフェラーリスポーツカーの全盛期で、1964年まで続くフェラーリ5連覇の一角を担っている。
 その後、フェラーリはMRのPシリーズを投入、60年代後半からは同じくMRのフォードGT40との戦いに突入してゆく。
 以降、ポルシェ917、マトラ・シムカ、ポルシェ936、それからグループCの時代……ル・マンの優勝車はすべてミッドシップのマシンであった。

 では、その間、FRのレーシングカーは絶滅してしまったのか?と言われると、そうではなく、数は少なくとも時折FRに「勝利の方程式」を見出して、チャレンジをしたレーシングカーも存在した。

 そんな(ちょっと趣旨の違うものもあるけれど)FRレーシングカーを、少しばかり紹介する。

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▲Panoz LMP1 Roadstar-S (2002)

 まず、比較的最近、オーバーオールにチャレンジしたFRカーといえば、ドン・パノスが率いるパノスが挙げられるだろう。
「馬車の馬は前に付いている、後ろからは押さない」という理念(この言葉自体もライターのでっち上げではないかと言う感じもするが)のもと、GT1カーであったパノス・エスペランテGTR-1の屋根をチョップオフし、FRレイアウトのまま、ル・マンプロトのマシンを作り上げたパノス。
 これだけを聞けば、なかなかキワモノ感あるやり口だが、実際にはかなり速かった。

 1999年のALMSチャンピオン、ル・マンにも99年から03年まで参戦をし(但し、03年はワークスチームではなくレイ・マロックに委託したJML Team Panozのエントリー) 00年と03年には5位を記録、99年の予備予選では2位を獲得しており、侮れない速さを発揮した。
 結局ル・マン制覇には至らなかったものの、彼らの参戦した時代、最強だったアウディR8(LMP)の最も有力な対抗馬はパノスであり、時代遅れだったライリー&スコットMk-3や、フェラーリ333SPよりも競争力があり、00年にはル・マンのレース中にトップを快走するシーンもあった。

 何より02年のALMS、あの忌まわしい911テロから一年後、JFKスタジアム周辺で開催されたワシントンDCグランプリで、終始優勢だったアウディR8の追撃を凌ぎ切り、優勝をかっさらった姿はカッコ良かった!

 パノスLMPシリーズはFRレーシングカー独特の非常に長いフロントデッキを持っており、運転席は後輪車軸の手前という、特異なレイアウトというのもあって、多少ドライバビリティに癖はあったようだが、コーナリング中のコントロールは比較的良好で、特にウェットコンディションを得意とするマシンであった。

 ただ、FRの難点であり、結局パノス克服できなかったのがセンタードライブシャフトの振動の問題である。
 エンジンから無減速でドライバーの脇をドライブシャフトが回転しており、パノスLMP1ロードスターSでは、あまり高回転型ではないジャック・ロウシュのプッシュロッドOHVエンジンが搭載されていたが、それでも7000RPMで回転するドライブシャフトによる振動に起因するトラブル……主にギアボックス関係はマシンの最大の問題であった。

 00年末、アデレイド市街地で開催された伝説的なレース「Race of 1000 Years」でデビューした、パノスLMP1ロードスターSの後継モデル「パノスLMP-07」の失敗も、パノスの活動に大きな影響をあたえることとなった。

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▲Panoz LMP-07 (2001)

 既に時代遅れだったプッシュロッドOHVを捨て、ザイテックが開発した4L/V8エンジンのピークパワーは10000RPMと言われており、乾燥重量110kg程度だったエンジンは優秀だったかもしれないが、10000RPMで回るドライブシャフトの振動は、当時の技術では制御不能なシロモノだった。

 また、アンドリュー・ソービーの設計したシャシーは、剛性が著しく不足しており、ドラッグも多く、ウェットコンディションの時を除いて、活躍はおろか、マトモに走らせることすら出来ず、結局パノスは1年ほどでこのマシンの開発を諦め、時代遅れになった前モデル「ロードスターS」を引っ張りだすことになった。

 その後マルチマティックの手によって無限のMF408Fエンジンを搭載するなど、細々とした改良を進められたものの、パノスは02年いっぱいでワークスチームをALMS撤退させてしまった。


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▲Nissan 300ZX IMSA-GTS (1994)

 ニッサンのFRマシンとしての活躍で、比較的近代において有名なのが、IMSAキャメルGTシリーズで活躍したこのクレイトン・カニンガムのニッサン300ZXだろう。
 パイプフレームで組まれたシャシーに、300ZX風のカウルを被せたレーシングカーは、非常に出来の良かったニッサンのVG30型エンジンのパワーも相まって、90年代前半のIMSAにおいて大いに暴れまわった。

 文字通り「運転席の前」に搭載されたエンジンは、フロントミッドというのもあり、搭載位置はコクピット内にまで後退させており、このマシンをル・マンで駆った粕谷俊二氏いわく「エンジンを抱えて運転しているようなもの」 「熱と振動で地獄のようなコクピット」 「ほとんど後部座席あたりの着座位置」 とコメントしている。
 
 特筆すべきは94シーズン。
 IMSA-GTP崩壊後のデイトナ24時間で総合優勝、ライバルだったブリックス・レーシングのオールズモビル・カトラスの不調や、前年300ZXの進撃を阻んだジャック・ロウシュのマスタングGTOの不参加などもあったものの、FRレイアウトのマシンでのデイトナ総合優勝は30年ぶり(34年ぶりだったかもしれない……)とまで言われ、その後、アメリカのスポーツカーレーシングの聖地「セブリング12時間」でも優勝、この勢いのままル・マン24時間にチャレンジした。

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▲Nissan 300ZX IMSA-GTS (Le Mans 24Hours 1994)

 しかし、レース環境のなにもかもが違うアメリカン・レーシングマシンがル・マンで成功するには、もう一つ踏み込んだマシン開発が必要だった。
 この年はグループCカーの最後の年と言われ、このあくまでもGTカーを装ったレーシングマシンで彼らと互角の戦いを求めるのは酷であった……

 結果として24時間を走りきり5位入賞、300ZXより上位の4台はすべてグループCカーであり(厳密にはダウアー962はGT1ではあるが……)IMSA GTSクラス優勝(3台しか出なかったが)という結果は大健闘ともいえるが、デイトナ、セブリングでプロトタイプマシンを破って乗り込んできたマシンとして、求められた結果は「優勝」と考えたら、やはりその壁の厚さに跳ね返されたとも言える。

 レース後カニンガム御大は「来年も必ず来る、勝ちに来る」とリベンジを誓うものの、IMSAでは強すぎる300ZXにハンデが多く与えられ、更には94年いっぱいでGTSクラスのツインターボの禁止などの逆風もあり、95年にはインフィニティQ45用エンジンをベースに開発した5L/NAエンジンを開発するものの、95年のル・マンにはとうとう現れなかった。

 95年のル・マン、優勝したマクラーレンF1GTRの周回数は、わずか299周。
 もし、クレイトン・カニンガムの300ZXが走ったら、クラッチに決定的な弱点を抱えたマクラーレンと対決していたら……FRのニッサン車はル・マンに君臨しただろうか?

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▲Ford Mustang GTP (1983)

 このマシン、こんなカタチをしていても、れっきとしたGTPカーである。
 1980年台においても、MRが勝てるレーシングカーの方程式として揺るぎないものがあったのだが、それに疑問を投げかけ、決定的な欠点を見つけ、その解決策としてFRを選択したのが、ザクスピードが開発したこのフォード・マスタングGTPである。

 ミッドシップの弱点とは、床下の構造の不自由さである。
 80年代の当時はウィングカー全盛期であり、いまに比べて床下の構造がはるかに自由であり、グランドエフェクト(床下負圧)を得るためのエアトンネルを自由に設計することが出来た。

 エアトンネルは車両後端のディフューザーに掛けて長く、高くせり上がってゆくように設けるのが(乱暴に言えば)理想的なカタチといえるのだが、車体後端にかけて、床下のエアトンネル大きく設けると、その分エンジンの搭載位置が高くなり、重心が高くなってしまうだけでなく、高い位置につきだしたインプットシャフトでは、理想的なサスペンションジオメトリーを求めるのは困難だった。

 しかし、エンジンを低く搭載しようとすると、今度はエアトンネルが短く、小さくなり、ダウンフォースバランスが極端に後ろ寄りになり、高速走行時のマシンバランスが悪化してしまう。

 実際、ほぼ同時期に開発されていたボブ・トゥリウスのジャガーXJR-5はV12の巨大なエンジンから、平らな床下を大きく設けざる得ないマシン開発を強いられ、極めて後ろ寄りのダウンフォースバランスのためマシンのハンドリングは最悪で苦しんでいた。
(結局、ボブ・トゥリウスはこの問題を終始解決することが出来ずに終わってしまうのだが……)


 そこで「エンジンを前に積んでしまえば、理想的な空力特性を得ることが出来る」と思いつき、生まれたのがこのフォード・マスタングGTPである。
 デザイナーは後にイントレピッドGTPやキャディラック・ノーススターの開発にも関わるボブ・ライリーである。
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▲Ford Mustang GTP Press Presentation 6/13 in1983

 しかし、このマスタングGTP、卓上では非常に有望なポテンシャルを見せたのだが、いかんせん信頼性があまりになさすぎた。
 83年のIMSAロード・アメリカ戦では鮮烈なデビューウィンを飾り、幸先の良いスタートを切ったものの、その後は完走すらままならないレースが続き、開発もままならず、結局84年いっぱいでフォードはこのプロジェクトを投げ出してしまった。
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▲Ford Mustang GTP (1984)
 
 だが、このマシンは果たして卓上の空論だけの、失敗作だっただろうか……?
 リザルトだけ見れば散々ではあるものの、ポールポジションを何度も獲得しており、ファステストラップも何度かマーク、特にレース序盤、ポールポジションから一気にレースを支配するマスタングGTPの姿は、その特異なロングノーズ&ショートデッキのスタイルもあって、魅力的な走りを見せていた。

 実際、ボブ・ライリーの提唱した理論は間違っておらず、非常に効率のよいエアトンネルは、少ないドラッグで多くのダウンフォースを得ることに成功しており、直線スピードや高速カーブは非常に速かった。
 ただ、最先端技術の満漢全席だったエンジンはトラブルを抱えることが多く、熱対策やドライブシャフトの振動など、もぐらたたき状態であった。
 結果を求めた首脳陣の判断は仕方なかったのかもしれない。
 しかし、真のポテンシャルを見せぬまま消えていったのは、なんとももったいなく感じるものだ。

 フォードは83年初頭にC100プロジェクトをキャンセルさせており、その後釜として進められたマスタングGTPプロジェクト、将来的に世界選手権、ル・マンへの参戦も視野にいれていたと言われていたのだが……

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▲Ardex S80 (1981)
  蛇足かもしれないが、フロントエンジン・レーシングカーといえばやはり挙げねばならないカルトカーと言えば、このアルデクスS80。
 まるでポリゴンで構成されたようなエクステリアだが、エクゾーストの排出位置に注目。
 なんとこの出で立ちながら、エンジンはフロントエンジンなのである。
 設計をしたのはマックス・サルドゥ、フランスの空力スペシャリストの理想を具現化したマシンである。

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 アルデクスS80は、マシンの発表されたのは80年ではあるが、サーキットに登場したのは翌年81年のル・マン24時間レース。
 見てわかるように非常に大きなエアトンネルを有しており、前に述べたフォード・マスタングGTPと同じコンセプト……理想的なエアトンネルを設けるにはフロントエンジンが理想的であるという理論のもと、マシンは設計されている。

 ……が、到底、人が運転するようには設計されておらず、なんとエンジンはコクピット中にあり、ドライバーの目の前に配置されている。 整備を受けてる写真を雑誌で見たことがあるのだが、エンジン越しにドライバーが座っている絵面はシュールですらあった。
 結局、マシンはあらゆる部分で完成に至っておらず、予選も満足に走ることが出来ず予選落ち。
 以降、このマシンはル・マン、サルテサーキットに併設されている博物館に保管されている。
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(しかし、91年に博物館が新築されてからは写真がないので、現在どうなっているかは不明)

 マックス・サルドゥ氏はその後ロンドーM482の開発に携わるが、なかなかこのマシンも魅力的なおしりであった。
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▲Rondeau M482/83 (1983)

 ここまで、代表的なFRレイアウトのレーシングカーを上げてきたが、他にもマイナーな車両を上げれば、シボレー・カンニバルやアストンマーチンDPLM、スカイラインターボCなどもフロントエンジンのレーシングマシンであり、多くはないものの、その時代ごとに時折FRの挑戦者は散見される。
 だが、どれも共通してるのは、ル・マンには勝てなかったということ……果たして、新しいニッサンのLMPカーはこのジンクスを打ち破り、君臨できるだろうか。

 もし出来たら、とても驚く!!!
 
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by minagi_ichirino | 2015-01-31 04:02 | RacingScene | Comments(0)
ニムロッド・アストンマーチンの事故(1984)について考えてみた。
 色々思うところがあって、84年のル・マンで起きた凄惨な事故、ニムロッド・アストンマーチンの同士討ち事故について色々調べてみたので、色々まとめてここに日本語で書いてみることにする。

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 そもそも、日本では知名度の低いこのグループCカー、ニムロッド・アストンマーチンはニムロッドNRA/C2と表記され(当時の雑誌記事などのアナウンスでは前者のネーミングだったはず) ニムロッド・レーシング・オートモーティブが82年から84年まで、世界選手権(WEC)で走らせた車両。

 プロジェクトリーダーはビスコント・ダウン氏、シャシーの設計はローラ・カーズが受け持ち、エリック・ブロードレイ当人が仕上げている。
(後に83年以降のカウリングに関してはレイ・マロック・リミテッドが担当したとも)
 エンジンはアストンマーチンのラゴンダ用のV8エンジンをティックフォードでグループC用にチューニングされたものを使っていた。(もともと市販車のアストンマーチン・ラゴンダのエンジン自体、ティックフォードがディベロッパーだった)

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 マシン自体はそれほど悪いものではなかったが、現実にはライバルであったポルシェ956ほどの信頼性や、ランチアLC2ほどのスピードを兼ね備えてるわけではなく。彼らの後方で淡々と上位を伺う走りが印象的だった。

 消えていったロンドーM482やフォードC100、ゼーカーC830に比べると、マシンの完成度やスピードは一歩優っていた側面もあるのだが……

 ニムロッド・アストンマーチンはアストンマーチンの公式プロジェクトではなく、あくまでもプライベートチームによる参戦であり、それによるレベルの限界もあったが、エンジン自体ラゴンダに関係の深いティックフォードがチューニングを担当しており、全くの支援がなかったわけではなさそうだ。


 肝心の事故は84年のル・マン、スタートから5時間が経過した地点で起きたと思われる。 
(資料では午後9時14分とも書かれているが、これがサマータイム制の時間なのか、グリニッジ標準時なのかまではおおよそ書かれていないので不明。ただ、事故時の景色を見る限り、おそらくサマータイム時刻と思われる)

 ユノディエールのバックストレートのストレートエンド、ゆるい右カーブがあり、そこへ2台のニムロッド・アストンマーチンはランデブ走行で差し掛かっていた。

 前を32号車のジョン・シェルドン、後ろは31号車のドレイク・オルソンがそれぞれハンドリングをしていた。
  
 ゆるい右カーブで前をゆく32号車はタイヤのエア抜けが起きており、350kmを超える状態でジョン・シェルドンはバランスを崩し横を向いてしまい、後続していた31号車ドレイク・オルソンがそれに激しく激突。
 その衝撃により32号車は真っ二つに引き裂かれ、空中に投げ出されコース外に落下、爆発炎上してしまう。
 
 この事故によりオフィシャル2名(1名?)が死亡したと、だいたい書かれてあるがおそらく、空中に投げ出された車両かパーツがオフィシャルを直撃したものと思われる。

 激突した31号車のドレイク・オルソンもフロントカウルを吹き飛ばし、ガードレールに激突し、コース中央にストップした。

 資料によっては32号車がガードレールに激突したと書かれてるが、事故の映像を見る限り車両後端部分そのものがコース外に飛び出して激しく炎上しており、おそらく空を飛んだか、きりもみ回転したのではないかと思われる。

事故当時の映像。
 


 16号車のリチャード・ロイドポルシェのカメラカーからの事故の様子。
「なぜペースカーが入らない?」「赤旗にしてレースを止めるべきだよ……」というドライバーの呻き声も聞き取れる。

 コース上で消火作業をされてるのが32号車のジョン・シェルドンのコクピット。
 彼は救出され、病院へ(意識不明のまま?)搬送され奇跡的なことに火傷で済んだようだ。

 この事故の直前まで二台のニムロッド・アストンマーチンは順調なペースで走っており、1台は有力ポルシェ勢に割って入る7~8番手、もう一台もトップ10を伺うポジションまで上げてきていた。
 それだけに最悪の同士討ち事故とも言える。

 この事故の直前、32号車のジョン・シェルドンは、ポルシェカーブで黄旗区間で減速していたマツダ727と接触しており、それによってタイヤにダメージを負ってしまったのではないかという記述もあるが、詳細は不明。
 ただ、確かにドライバーによってコース上でヒッティングしても、ピットに入らず行っちゃえーっていうヤツって居るっちゃ居る……
 当時、ル・マンでこの事故を見た(体験した)童夢の林みのる氏は「日本のチームが同じような事故やったら、確実にル・マンに日本車は出場できなくなる」って言わしめるほどのひどい事故だったそうだ。

 とは言え、結局この事故でニムロッド・アストンマーチンは世界選手権から撤退、もともと資金繰りもかなり厳しかったニムロッド・レーシング・オートモーティブも解散(倒産?)してしまう。

 
 んで……この事故ったニムロッド・アストンマーチンの31号車。
 ドレイク・オルソンと一緒に乗り込んでいたのがレイ・マロック。

 先に書いたように、レイ・マロックはこのドライバーとしてだけでなくニムロッドのマシン開発にも一枚噛んでいたようで、自身のガレージを既に持っていて、84年のル・マンには、同郷スコットランドのヒュー・マッケイ氏にガレージを貸し出しており、そこで制作されたエコッスC284が出走していた。

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 ニムロッドが解散し、アストンマーチンとのプロジェクトが霧散してしまったレイ・マロックは、このエキュリー・エコッスのプロジェクトに、ガレージを貸すだけでなく更に深く参画してゆく事になる。

 それは同じくニムロッドを支援していた建築会社ボービスも一緒で、レイ・マロックとボービスはお互いイギリス製のレーシングマシンに対する気持ちにおいてシンパシーがあったと思われる。
 翌年85年、ボービスはエキュリー・エコッスのマシンを支援することを決め、ニムロッドと同じボービスカラーでエコッスは走ることになる。

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 ボービス自体は、スポンサー交渉の際アストンマーチンを積んだC1カーでの参戦を望んでおり、やはりニムロッド・アストンマーチンに対する期待度が高かった、思いが大きかったと推測される。
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by minagi_ichirino | 2014-11-14 00:40 | RacingScene | Comments(0)