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ニムロッド・アストンマーチンの事故(1984)について考えてみた。
 色々思うところがあって、84年のル・マンで起きた凄惨な事故、ニムロッド・アストンマーチンの同士討ち事故について色々調べてみたので、色々まとめてここに日本語で書いてみることにする。

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 そもそも、日本では知名度の低いこのグループCカー、ニムロッド・アストンマーチンはニムロッドNRA/C2と表記され(当時の雑誌記事などのアナウンスでは前者のネーミングだったはず) ニムロッド・レーシング・オートモーティブが82年から84年まで、世界選手権(WEC)で走らせた車両。

 プロジェクトリーダーはビスコント・ダウン氏、シャシーの設計はローラ・カーズが受け持ち、エリック・ブロードレイ当人が仕上げている。
(後に83年以降のカウリングに関してはレイ・マロック・リミテッドが担当したとも)
 エンジンはアストンマーチンのラゴンダ用のV8エンジンをティックフォードでグループC用にチューニングされたものを使っていた。(もともと市販車のアストンマーチン・ラゴンダのエンジン自体、ティックフォードがディベロッパーだった)

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 マシン自体はそれほど悪いものではなかったが、現実にはライバルであったポルシェ956ほどの信頼性や、ランチアLC2ほどのスピードを兼ね備えてるわけではなく。彼らの後方で淡々と上位を伺う走りが印象的だった。

 消えていったロンドーM482やフォードC100、ゼーカーC830に比べると、マシンの完成度やスピードは一歩優っていた側面もあるのだが……

 ニムロッド・アストンマーチンはアストンマーチンの公式プロジェクトではなく、あくまでもプライベートチームによる参戦であり、それによるレベルの限界もあったが、エンジン自体ラゴンダに関係の深いティックフォードがチューニングを担当しており、全くの支援がなかったわけではなさそうだ。


 肝心の事故は84年のル・マン、スタートから5時間が経過した地点で起きたと思われる。 
(資料では午後9時14分とも書かれているが、これがサマータイム制の時間なのか、グリニッジ標準時なのかまではおおよそ書かれていないので不明。ただ、事故時の景色を見る限り、おそらくサマータイム時刻と思われる)

 ユノディエールのバックストレートのストレートエンド、ゆるい右カーブがあり、そこへ2台のニムロッド・アストンマーチンはランデブ走行で差し掛かっていた。

 前を32号車のジョン・シェルドン、後ろは31号車のドレイク・オルソンがそれぞれハンドリングをしていた。
  
 ゆるい右カーブで前をゆく32号車はタイヤのエア抜けが起きており、350kmを超える状態でジョン・シェルドンはバランスを崩し横を向いてしまい、後続していた31号車ドレイク・オルソンがそれに激しく激突。
 その衝撃により32号車は真っ二つに引き裂かれ、空中に投げ出されコース外に落下、爆発炎上してしまう。
 
 この事故によりオフィシャル2名(1名?)が死亡したと、だいたい書かれてあるがおそらく、空中に投げ出された車両かパーツがオフィシャルを直撃したものと思われる。

 激突した31号車のドレイク・オルソンもフロントカウルを吹き飛ばし、ガードレールに激突し、コース中央にストップした。

 資料によっては32号車がガードレールに激突したと書かれてるが、事故の映像を見る限り車両後端部分そのものがコース外に飛び出して激しく炎上しており、おそらく空を飛んだか、きりもみ回転したのではないかと思われる。

事故当時の映像。
 


 16号車のリチャード・ロイドポルシェのカメラカーからの事故の様子。
「なぜペースカーが入らない?」「赤旗にしてレースを止めるべきだよ……」というドライバーの呻き声も聞き取れる。

 コース上で消火作業をされてるのが32号車のジョン・シェルドンのコクピット。
 彼は救出され、病院へ(意識不明のまま?)搬送され奇跡的なことに火傷で済んだようだ。

 この事故の直前まで二台のニムロッド・アストンマーチンは順調なペースで走っており、1台は有力ポルシェ勢に割って入る7~8番手、もう一台もトップ10を伺うポジションまで上げてきていた。
 それだけに最悪の同士討ち事故とも言える。

 この事故の直前、32号車のジョン・シェルドンは、ポルシェカーブで黄旗区間で減速していたマツダ727と接触しており、それによってタイヤにダメージを負ってしまったのではないかという記述もあるが、詳細は不明。
 ただ、確かにドライバーによってコース上でヒッティングしても、ピットに入らず行っちゃえーっていうヤツって居るっちゃ居る……
 当時、ル・マンでこの事故を見た(体験した)童夢の林みのる氏は「日本のチームが同じような事故やったら、確実にル・マンに日本車は出場できなくなる」って言わしめるほどのひどい事故だったそうだ。

 とは言え、結局この事故でニムロッド・アストンマーチンは世界選手権から撤退、もともと資金繰りもかなり厳しかったニムロッド・レーシング・オートモーティブも解散(倒産?)してしまう。

 
 んで……この事故ったニムロッド・アストンマーチンの31号車。
 ドレイク・オルソンと一緒に乗り込んでいたのがレイ・マロック。

 先に書いたように、レイ・マロックはこのドライバーとしてだけでなくニムロッドのマシン開発にも一枚噛んでいたようで、自身のガレージを既に持っていて、84年のル・マンには、同郷スコットランドのヒュー・マッケイ氏にガレージを貸し出しており、そこで制作されたエコッスC284が出走していた。

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 ニムロッドが解散し、アストンマーチンとのプロジェクトが霧散してしまったレイ・マロックは、このエキュリー・エコッスのプロジェクトに、ガレージを貸すだけでなく更に深く参画してゆく事になる。

 それは同じくニムロッドを支援していた建築会社ボービスも一緒で、レイ・マロックとボービスはお互いイギリス製のレーシングマシンに対する気持ちにおいてシンパシーがあったと思われる。
 翌年85年、ボービスはエキュリー・エコッスのマシンを支援することを決め、ニムロッドと同じボービスカラーでエコッスは走ることになる。

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 ボービス自体は、スポンサー交渉の際アストンマーチンを積んだC1カーでの参戦を望んでおり、やはりニムロッド・アストンマーチンに対する期待度が高かった、思いが大きかったと推測される。
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by minagi_ichirino | 2014-11-14 00:40 | RacingScene